追悼――筑紫哲也氏を否定的に総括する!
11月 14th, 2008 by admin
天神 有人
筑紫哲也氏が亡くなった。連日のようにテレビが追悼番組を組み、先日も久米宏氏が「テレビって」の中で、「代わる人が思い浮かばない」と筑紫氏への思いを述べていた。確かに、今日のマスコミ界では、それだけ大きな存在だったのだろう。もっとも、つい昨年あたりの週刊誌には、老化により、滑舌が悪くなり、もう限界か、そろそろ交代、といった記事が載っていたから、ガンにならなかったら、どうなっていたのだろう。私もずっと、夜は「ニュースステーション」、「筑紫哲也 NEWS23」を見てきた世代だから、筑紫氏の存在は、小さくはなかった。「テレビって」の中のVTRで、筑紫氏は久米氏の功績を、「ニュースとお茶の間の距離を近づけた」と適切な評価をしてみせたが、何かとチャラチャラ浅く、軽薄な久米宏氏に比べると、筑紫氏の意見は、総じて、本物のジャーナリストを感じさせる、大人の鑑賞に堪える、本格的なものだった。しかし、今のマスコミの大勢がそうであるように、筑紫氏をあまりに完全無欠、オールマイティーな、偉大なスーパーマンに祭り上げるのもどうだろう。というのも、筑紫氏もまた、ほとんどの人間がそうであるように、様々な誤りや不完全な点や泣き所をもっていたと思われるからである。私は筑紫氏を追悼するこの機会に、あえて筑紫氏の胸を借りて、彼の残した負の遺産に焦点を当ててみたいと思う。偶像崇拝が危険なことは、むしろ彼自身が率先して承認することであろう。
筑紫氏が疑いなく世の中に害毒を流したのは、たばこに関する問題であろう。以下はWikipediaから引いた彼の語録である。
「一服できないと面白くない」、「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分、深い。(たばこは)人類が発明した偉大な文化であり、たばこの代わりはありませんよ。これを知らずに人生を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」 「がんの原因はストレスで、たばこはきっかけにすぎない」
何を居直って、くだらない屁理屈をこねているのか。JTの猫なで声の、偽善的なテレビコマーシャルよりタチが悪い。あちらにはまだ、自分の日陰の身への後ろめたさが感じられる。筑紫氏はそれをもっともらしい、非科学的な強弁で正当化し、青少年への悪い影響は計り知れない。たばこに発がん性があることは、人類共通の常識である。では、いっそ深い人生とやらを味わうために、アヘンでもやってみたらどうか。もっとも、彼が自らまいた種を刈り取る羽目になったことは、青少年には最上の反面教師になったかもしれない。
彼の経歴は、朝日新聞社の政治部記者が出発点であり、その後も、政治、外交畑を歩んでいる。そのため、こうしたテーマには強かった。彼は辻元清美氏の政界入りを勧め、彼女の政治団体への寄付もしていたから、社会党元党首土井たか子氏の護憲の立場をとっていたと思われる。しかし、北朝鮮が核を保有し、かつての土井氏の非武装中立などという絵空事がだれにも相手にされなくなった現在、自分の立場をどのように立て直そうとしていたのだろう。相変わらず、くさいものにはフタなのだろうか。彼は土井氏、日本の外務省ともども、恐らく、事なかれ主義から、北朝鮮の拉致の現実から、ずっと目を背けようとして来た。つまり、横田めぐみさん以下の拉致被害者を日本の平和と繁栄のための人柱とする道を選んだのである。彼にどの程度自責の意識があったか。もっとも、われわれ日本国民も、筑紫氏から、そう隔たった所にいるわけではないが。
こと政治的なテーマに関しては、なかなか厚みのある、懐の深い見解を表明していた彼が、一番貧相で、みすぼらしく見えたのは、オウム真理教事件、酒鬼薔薇聖斗事件のときだった。政治にあれだけ対応できた彼は、全くの哲学音痴だった。つまり、その場その場の皮相な問題に関して、ちょっと気の利いたコメントをすることは得意だったかもしれないが、物事を原理にさかのぼって、徹底的に考えるというようなことはできない人なのだ。したがって、無様にも、ああ言えば上祐氏に翻弄されて、リング中央で棒立ちになって、雨あられとパンチを浴びる始末になった。論理の恐ろしさが少しは身にこたえただろうか。もっとも、久米氏はもちろんのこと、田原総一郎氏、舛添要一氏はじめ、当時、これらの問題に適切に対応できた文化人、知識人は一人もいなかった。(立花隆氏のみが、少しはいい線に行っていたと思う) みんな呆然として、何が何だか分からなかったのである。筑紫氏は間抜けヅラを画面にさらして、多くの青少年の問い、「人を殺すのはなぜいけないことなのか」をもっともらしく紹介してみせたが、その後、いくら待っても、彼はこれに答えることができなかった。あなたがこの程度の問いに答えられなく、何がニュースキャスターか。国民はおろか、どうやって、青少年を指導できるのか。彼はこの問題を持って、あの世に旅立ったのであろう。
最後に、これは大したことではないが、筑紫氏の追悼場面で、鳥越俊太郎氏が、家族から筑紫氏のように文化の香りがしないと言われるとぼやいているところを見た。しかし、私は筑紫氏が芸術について本格的に語る場面をほとんど見た記憶がない。ちょっとオペラを見に行き、ちょっと芸術家と対談したぐらいで、もう芸術愛好家、芸術理解者になるのだろうか。下手の横好きの芸術愛好家など、掃いて捨てるほどいるではないか。
とはいえ、筑紫哲也氏が、ほどほどに知的で、ほどほどに鈍く、卓越したジャーナリズム・センスに恵まれた、今の時代のテレビの求める稀有のタレントであったという事実は認めなければならないであろう。