4月15日の「歴史秘話ヒストリア」は、長谷川等伯で、御用絵師の覇権をめぐる狩野永徳との息づまる対決に、手に汗握らされた。今回は、前回ダメを出した黒田アナウンサーの衣服や言葉使いも、大幅に改善されており、それほど不快な思いをせずに見ることができた。「その時歴史が動いた」は確かに名残惜しいが、亡くなった子供の年を数えても仕方がない。そろそろ、今度の新しい歴史番組に自分を慣らしていくしかないようだ。それにつけても、私は前の番組で2月4日にやった源義朝を取り上げておこうと思う。この回は見た後、とても印象に残ったが、まとめるのが大変そうなので、ついつい延び延びになってしまった。大分時間が経って、かなり記憶があいまいになっており、間違いも多いかもしれないが、ご容赦を請う。
源義朝は頼朝、義経の父であり、源氏の物語の発端者である。京都で生育したが、確か9歳のとき、父為義の命で、関東にやられ、そこで成人した。最初にその土地での何かのもめ事を、武力を用いて一気に解決した。やがて、1156年、保元の乱が起こる。後白河天皇と崇徳上皇の争いに摂関家の藤原忠道・頼長兄弟の内紛が連動し、これに平氏、源氏がそれぞれ二手に分かれて加勢するといった奇怪な構図の争いであるが、崇徳上皇方が源為義の提案した夜襲を却下している間に、後白河天皇方が義朝の提案した夜襲を決行して、勝利を収めた。戦う前から、集めた武士の数に大差があり、前者に不徹底なためらいもあり、勝負の帰趨は明らかであった。しかし、結果は信西主導による過酷な処罰が行われ、義朝は父為義を斬首する羽目になる。中央政府の紛争が武士の武力で決着した最初のケースであり、鎌倉時代の慈円は「愚管抄」の中で、この乱を「武者ノ世」の始まりと位置づけている。
しかし、義朝の運もここまでで、3年後の1159年のクーデタ、平治の乱で後白河上皇・二条天皇を軟禁するが、ちょっとした油断から、結局平清盛に敗れる。東国に逃れる途中、身内の裏切りによって、入浴中に殺害される。最後の言葉は、「戦う棒の一本もあれば、むざむざ討たれはすまいものを」であったという。37年の生涯であった。
さて、義朝はこうして一つの立派な花を咲かして、夢半ばに舞台から退場するが、彼の意義は大きい。彼は平清盛とともに「武者の世」の幕を開き、その後江戸時代まで続く力の原理を確立した。クラシック音楽の歴史で言えば、ソナタ形式を確立したハイドンのようなものか。さらに彼の二人の息子、頼朝、義経は、父の果たせなかった夢を実現し、大きな源氏の時代を形作った。後年、徳川家康は義朝を大いに尊重し、親戚の者に命じて、寺に厚く供養させたという。(4月20日)
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